1999年10月の地平線通信



■10月の地平線通信・239号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信239表紙●先日、20周年記念最後の特別報告会に参加した。20年前の1979年9月、第1回の地平線会議が行われたその日、ぼくはまだ2歳でよちよち歩きの赤ん坊だった。高校生のときに地平線のことを知り、いつか参加したいと思っていたが、「地平線会議」といういかめしい名前から、こわもての先輩たちが集まって会議をしている風景が頭に浮かびなかなか一歩を踏み出せずにいた。地平線に参加させていただいている今、その予想はあながちはずれていなかったと思いつつ、雲の上の存在だった方々と顔を合わせて話ができる喜びを噛み締めている。地平線の20年間の旅の末端にいることができるだけで、ただただ嬉しいのだ。

●20年、ということで、思い浮かぶことがもう一つある。ぼくはミクロネシアの離島に存在するスターナビゲーションを中心とした伝統航海術に魅かれ、同地へ何度となく通っているが、そこでいわれたのが航海術の習得には最低でも「20年はかかる」ということ。毎日夜空に広がる星星を見つめ、子どもの頃から海に出ている島の人間でさえそれだけかかるということは、とぎれとぎれに通っているぼくはその倍くらいかかるということだろう。何事も20年間やり通すことは容易なことではないとあらためて感じる。

●ぼくには航海術の師匠がいる。マウ・ピアイルグ、67歳になる航海者である。彼はその人生のほとんどを海とともに過ごし、何千回もの日の出を拝み、何万個もの星を見つめ続けてきた。彼のそばにいると、20年ちょっとの人生をコンクリートのおりの中で過ごしてきた自分の小ささを思い知らされる。

●最近、彼がナショナルジオグラフィックソサエティーから「Navigator of Century」として表彰されるという話を聞いた。彼は今年の4月、ポリネシア式の双胴船に乗ってハワイからミクロネシアへ1万キロにおよぶ航海を伝統航海術によって導いた。いうまでもなく、海図もコンパスも使っていない。他にも数々の驚異的な航海をこなしてきたマウは、やはり今世紀を代表する航海者といっても過言ではない。日本ではあまり名が知られていないのが残念である。

●ミクロネシアばかりでなく、メラネシアやポリネシアでも航海文化の復興に火がつきはじめている。ハワイでは、ポリネシアトライアングルの東端・イースター島に向けてマウの弟子であるナイノア・トンプソンが現在航海中であるし、フィジーやサモア・トンガなどでは伝統カヌーの建造が進められ海洋民としての誇りを取り戻そうと活発に動きはじめている。彼らの頭のなかにあるのは、産業社会やテクノロジー信仰が、未開とか素朴とか低開発とかいった名のもとに切り捨ててきた伝統文化を未来をきりひらくビジョンの出発点にすえようというきわめて積極的な思想である。環太平洋におけるそうしたカヌールネッサンスのうねりはここ20年ほどで確実に広がってきている。

●今年の夏、ぼくはロシアと東アフリカを旅してきた。人類の海の道をたどっているうちに、どうしてもそれらのスタート地点・東アフリカに行ってみたくなったのだ。単に旅行するだけではつまらないので、ロシアではMt.エルブルース、エチオピアではMt.ラスダシャンなど、 5000メートル程度のさほど困難ではない山々を登ってきた。技術的には難しくないけれど、単独で海外の雪山に登るのは初めてだったので自分自身にとっては非常に印象深い旅になった。

●エチオピアの山中では今年に入って6人が餓死したという。原因は雨が多く作物がとれなかったのと、暖をとるための薪が国の規制と天候不順であまり得られなかったことらしい。薪は町でお金に換えることができるので、山間部に住む彼らは国立公園のレンジャーの目を盗んで木を切る。彼らはその場しのぎの木の伐採が自分たちの未来に悪影響を及ぼすと理解しながら、となりにいる子どもの暖をとるために木を切っていた。

●人類の歴史は自然を収奪してきた歴史とも言い換えられる。悪い人間が自然をダメにした、と考えるのは楽だが、エチオピアの山を登りながら自然と人間の関係はそんな簡単ではないと感じた。自然保護とヒューマニズムの間にはいつもそうしたジレンマが横たわり、自分を悩ませる。

●20年前ならば、ぼくのようなへなちょこ人間がバイトをしたくらいでは、ロシアやアフリカを旅行なんかできなかったと思う。簡単に海外へ行けるようになった現在こそ、地平線が積み上げてきた旅が重みを増してくる、先日の報告会を聞きながらふとそんなことを思っていた。[石川直樹・早稲田大学3年(1999年4月第234回報告者)]

※今度大阪と京都で、ミクロネシアの伝統航海術についての報告会をすることになりました。基本的に地平線で話したことを話します。【10/29 7:00pm 弁天町オーク200内 弁天町市民センター】【10/30 2:30pm ハートピア京都】お問い合わせ・申し込みは06-6463-8627(宮部)まで。詳しいパンフをお送りします。



報告会レポート・239
「ジャーニーラン」新しい旅の始まり
田口幸子+中山嘉太郎
1999.9.24(金) アジア会館

◆「会場が取れていない」という、まさかのアクシデントに見舞われた今回の報告会。他の部屋も空いていなかったため、アジア会館の食堂をお借りして行われた。

◆中山嘉太郎さんは、韓国のソウル〜釜山(約500km)を、8日間で走破した。走りながら歩道のレンガの凸凹が気になったなんて、実際に走らなければ感じることができないことである。正直なところ私には、「500km走った」と聞いてもすぐにピンとこなかった。距離というものの感じ方は、人によって、そのときの状況によって違ってくるのであろう。中山さんにとっての500kmとは、どれだけのものなのだろうか。それを中山さんは気負うことなく話す。その口調からは、走ることへの想いが伝わってくる。

◆だが、500kmで驚いている場合ではなかった。中山さんは、日本でただ1人のデカトライアスロン完走者だ。デカトライアスロンとは、38km泳ぎ、1800km自転車をこぎ、422kmを走る、というもので、中山さんは約12日間で完走。しかも、変わりゆく景色を楽しみながら自転車で1800km走っていたのではない。1800mのトラックを1000周。水泳も、プールをひたすら往復するとのこと。その時の記録がきちんと残っている。人間にはこれだけのことができるのだ。

◆田口幸子さんの「遊ぶのが下手っていうことは、生きるのが下手っていうことなんです。」「引退したら遊ぼうなんてことは言わず、公私混同しながら遊ぶ」という言葉が印象に残っている。

◆田口さんは、サハラマラソンに出場し、見事完走。全装備を背負い、214kmを7日間で走りきった。もともとクロスカントリースキーがメインであったが、その後自転車レースやマラソン大会にも出場し、数々の成績を残している。登山も楽しむ。山菜とキノコ採りの名人で、釣りもかなりの腕前だとか。

◆田口さんご自身は、自ら進んで経歴についてお話するつもりはなかったようだが、経歴を聞くと、国際舞台で活躍するとはこういうことをいうのだ、と思わずにはいられない。モンゴルの国会で表彰されたこともある方なのである。

◆国連職員の時は「北欧で会議があれば、そのついでにクロスカントリースキーのレースに出てくる」、JICA職員の時は「ダム建設地を視察に行けば、山に行ける」――これが田口さんのいう「公私混同しながら遊ぶ」ということだ。ただ遊ぶだけでもなく、「仕事が忙しいから何もできない」と嘆くのでもない。時間の使い方がとても上手なのだろう。さらに「仕事は5年くらいで変えた方がいい。その方が緊張感がある」 とも。

◆今は、指圧師としてボランティアに励んでいる。地平線会議の人たちへのメッセージとして、「もっと社会に還元しろ、と言いたい。もっと周辺の人たちとシェアしよう。そうすれば、今より生き生きする人が増えるはず。それがこれからの<いい遊び>だと思う。1人で嬉しがっているだけでなく、社会に還元する方法を考えよう」と。

◆仕事も趣味も、自分がやりたいことはする。1人で楽しむだけでなく、社会に還元する。そのような生き方に、憧れつつも実行できないでいる人が多いように思う。それを実践しているのが、田口幸子さんにほかならない。

◆中山さんも田口さんも自らの限界に挑戦した結果、「日本で初めて〜を成し遂げた」という記録を持っている。「生命」という視点から捉えれば、限界に挑戦することは大切なことだ。なぜなら、自分たちの限界の幅を広げていくことによって、様々な環境下で自分たちが生き延びる可能性を広げることになるからだ。ただ、人間はその途中で記録に残そうとする。何かを表現しようとする。どうして人は何かを表現し、伝えようとするのか。それは、漠然としていたものを何らかの形にすることによって、自分という人間が、ここに確かに存在したということを残したいからではないだろうか。100%完璧にはできないかもしれない。しかし、敢えてそれに挑戦するのが人間なのではないか。アジア会館からの帰り道、そんなことを考えた。[大井田ひろみ]



《企画者からの一言》

「20年目の地平線」の第3弾として「新しい旅の始まり」を語る企画をしました。バーチャルな旅が主流になる中で、自分の足で体験をしていくという「地平線会議」本来の旅を見直すことが、新たな旅の出発になると考えたからです。田口幸子さん、中山嘉太郎さんは私が見るところでは、賀曽利隆さんと甲乙をつけがたい世界的「遊び人」です。彼らを通して新たな空間概念、思考感覚を聞くことができて幸せでした。終わったあとで田口さんが「三輪さん、自分の言いたいことを私らをダシにしてしゃべりたかったんだろう」と言いました。まさにその通りで、私の企画は大成功でした。

※始まる前、なんとアジア会館の会場を予約していないことが分かり大慌てをしました。「地平線会議は場所も決めずに人を呼ぶのかい?」と言われてましたが、食堂の一角をお借りして無事開始。講師のお二人には何ともお詫びのしようなし。この場を借りて陳謝。アジア会館のみなさまにも感謝。台風の中ご来場のみなさまには江本さんのお詫びビール。[1979年9月、第一回報告会登場の三輪主彦]



新シリーズ 見えない地平線
のぐちやすおの刑務所レポート
その9 死刑台からの風景(1)

◆今回より「死刑台からの風景」をお届けします。では、その状況をよりリアルに想像するため、自分は死刑囚であるとの妄想を抱いてください。よろしいでしょうか。その日の朝、主人公たる死刑囚「あなた」に、拘置所長から呼び出しがかかりました。そして「ついに来たよ、お迎えが」という刑の言い渡しが行われ、すぐそこに突如として人生の終点が現れてしまいました。これでもう二度と帰ることのない旅を始めねばなりません。もちろん、あなたの好む好まざるに関わらずです。

◆この時の死刑囚の反応は、実に様々だと言われています。なぜ俺なんだと大暴れする者、その場にへたり込み動けなくなるもの、やっとお迎えが来たと安堵する者、被害者に懺悔する者などなど。なお、呼び出しから執行まではほんの数時間。以前は前日言い渡しが主流でしたが、精神的負担が大きすぎるからとの理由で、今では当日になっています。それと、その前に、私の在職中に死刑執行は行われなかったので、これらの話は全て立ち会った古参看守らの伝聞である事をお断りしておきます。

◆いよいよ執行です。数人の看守らに囲まれて、長年過ごした独房から出されます。振り返ればそこには、もう二度と戻ることのない終の棲家。自力で歩けるだけの覚悟を決めたものは、この時どうしても涙ぐむそうです。そして、仙台拘置支所の廊下を歩き、宮城刑務所との境を旧若林町土塁下のトンネルをくぐります。入り口は軽い軽金属性格子の扉ですが、刑務所側はやけに重々しく、その重さで閉じるような鉄扉です。

◆ぎいいいーーー、っと音を立てて、この鉄扉が開きました。真っ暗だった空間に日の光りが差し込み、一歩出たところで、ぐわしゃああああーーーーんと重々しい音を立てて鉄扉が閉まります。

◆出たすぐ右手が執行所。ちょうど公園の中の茶屋のような造りの家屋です。振り返ればそこには20数株のツツジ。初夏ならこの花が見納めということになるでしょう。執行所の木戸が開きました。さあ、あなたに残された時間、あと30分。[埜口保男]



地平線ポストから
地平線ポストではみなさんからのお便りをお待ちしています。旅先でみたこと聞いたこと、最近感じたこと…、何でも結構です。E-mailでも受け付けています。
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〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
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お便りお待ちしています


●河野孝司さんから…西穂山荘発
台風18号、皆様の所にも多かれ少なかれ影響を与えていることでしょう。西穂山荘付近においても、新穂高ロープウェイの始発からの運休、また、山荘では冬季に取付ける、垣板を飛騨側、信州側に取付けドラム缶や飛びそうな物はブロックで固め、台風に備えています。上高地・釜トンネルの事故復旧にも影響がでそうな感じです。そんな強風の中、上がって来る登山客の方もいらっしゃいますが、時間を持て余している山荘従業員からの暇潰しメールでした。



●鈴木瑛子さんから…1999.9.14…トルコ発
地平線の皆さま、こんにちは。鈴木は元気です。8月27日の報告会では、トルコ地震についての義援金の御協力ありがとうございました。鈴木は、9月4日(土)にトルコに到着し、5日に被災地の一つであるアダパザールにはいりました。以下、一週間の滞在の中で、気がついた事を報告したいと思います。

〜アダパザールに死臭〜
◆日本からの飛行機で一緒になった日本のNGO(神戸からと東京から)の人々とアダパザールに入る。交通路は、幹線バスが平常どうり運行しており、それを利用した。街に近づくにつれて、郊外の平坦部にテントが目立つようになる。それらは皆被災者の物だという。

◆やがて、街郊外のバスターミナルに近づくと、埃のにおいとちょっと気になる匂いが鼻をつくようになる。それがなんであるのかは、口にするんのが怖かったのですが…。案の定、被害がひどいとされるイズミット通りにはいると、「絶句」。まるで爆弾を落とされたよう。中心路の両サイドの建物が約500メートルにわたり全部崩壊している。かつては、5,6階建ての建物であったろうが、1〜3階まで全部つぶれ、まるで3 階建ての建物のよう。または、大きく傾いている。

◆そして現在の問題点1は、その瓦礫の山がまだ片づけられていない事である。現地の人々が言うには、「この瓦礫の山の中に、まだ10人、あっちには多分15人ぐらいの遺体があるだろう。それらがあちこちにあり、地震発生後3週間たっているので腐敗してきている、その匂いがするようになってきた。」と。私が感じた事が残念ながらあたってしまった。そして現実に、当局側が散水車で、消毒液を撒いていて、私もしっかりそれを浴びてきました。

◆そして問題点2として、その崩壊した建物に隣接している2階建ての建物や木造の建物は、しっかり建っている。あきらかに不良建築と地震波の通り道にあたった所において被害が増幅されたよう。

◆この街はトルコの中でも被害状況が一番ひどいとされている。アダパザールの意味は(島の市場)という。つまりこのあたりは水が出やすい所で、地盤が弱いそうである。またかつて、1943,53,67年にも地震が起こり、特に67年の地震後文部省関係の調査でこの地の危険性が強く言及されており、それに対応した建築が必要であった(その本のコピーを鈴木は入手)。それらへの対応が遅れた事がやはり悔やまれる。

◆被災者は現在テント村に住んでいる。これは街の中心地や郊外、または近郊の村に設置されている。しかし雨期の始まりにより、夜が冷え込んでくるため早急に仮設住宅等の建設が望まれる。また救援物資等もトルコ各地や各国からの援助により街の中心地にあるテント村には配達されているようだが、村の所までには充分とは言えないようである。

◆そのために問題点3として、物資の配達。これにはトルコ当局側、トルコ人・外国のNGOが関っているがまだ充分なネットワークが形成されていない(日本も含めて)。また外国人がトルコ国内に個人的に救援物資を送ろうとすると、商業扱いで、大きな関税がかかってしまうとの事である。そのため、トルコ国家側の緊急時における柔軟な対応をも望まれる(これも日本でも同じか)。

◆暗いことばっかり書いてしまいましたが、ほっとする事もあります。それは、被災者の方々が思ったより明るくて、私のほうが話しを聞いていて泣きそうになってしまいます。でもそれは、神戸の被災者の方によると、「援助を受けるだけではなく、受けたら、お礼として何か返したいんだ、それが笑顔だけであっても。」とのお話。寄ってくる子供達の笑顔の影にも、意識的にしろ、無意識にしろものすごい精神コントロールが働いているのだと思うと、この国の人々の根本的なエネルギーに触れる思いがします。

◆またトルコとギリシャは犬猿の仲だったのですが、今回の地震でギリシャはトルコに救援を送り、トルコもギリシャに救援を送りました。特にトルコの民間緊急救援隊 AKUT(これはトルコの民間の登山家のグループ)がすぐに出動し、ギリシャの大臣から感謝された、との事。また13日から学校が始まったのですが、そこで、ギリシャとの敵対関係を終わりにして、友好関係を強調する授業を行おうとの声がでています。トルコは近隣諸国と緊張関係を生じやすい国ですが、今世紀屈指の災害にあって、従来の緊張関係から友好関係へと転換できるなら、それがこの地震によって得た事のひとつなのではないかと思います。

◆こっちでNGOの動きをみていると、いろんなNGOがくるのですが、バラバラに動き、同じトルコの施設に違う人が何度も尋ねて、トルコ側が嫌気がさしている、というのを小耳にはさんだのです。日本人へは、非常に好意的なのですが、同じ日本人としてみていると、大金をかけてくるならば、日本で連絡を取りあって、救援の次のステップに進んでくれ、と思うのです。こんな事を偉そうに言う私も、実は救援が思うように進まずいらだっているのですが。実は、私も阪神大震災の状況を、日本の居住権の問題として考えようとして、1996年イスタンブルで開かれた「国連人間居住会議・ハビタット」に「日本NGOフォーラムforハビタット」として来ているのですよ。私にとっては、今度の地震はまさしく阪神のトルコ版なんです。しかも、地震の規模も、社会的な状況もトルコの方がはるかに厳しい。というわけで、個人的には日本のNGO達とトルコの NGO達の連携により救援を考えているのです。それの実現への過程は、日本のNGOの在り方、またトルコ社会をも反射する鏡になるだろうと、思っているのですが。


不定期破天荒連載「生田目が行く!」
番外編99年版その1
ナマタメ・イン・チベット

◆日常とは決まりきった毎日だそうで、不条理とは理屈に合わない事だそうだ。理屈に合わないことが当たり前のように日々を積み重なると疲労するというわけだ。 6月下旬のある日、珍しく家でプロ野球ニュースかなんかをボケッと見ながら、缶発泡酒をちびちび飲んでいた。何倍目かのウーロンハイを呷った父が「おい明美、ボーナスはいくらくれるんだ?」。耳の奥の方で足元の細道がガラガラと崩れていくのを感じた。いつもなら「何いってんのよ」と笑い飛ばせるはずの酔っ払いの戯言なのに、その時はなぜかダメだった。胸の中からどろどろしたものが沸きあがってきて、口の中にねっとりとした唾がたまっていった。

◆「ボーナスまだ出てないから」というのが精一杯だった。飲みかけの缶を握り締めたまま自室で布団をかぶって泣いた。ヌ声を殺したために涙は倍増した。それでなくても希薄な親子関係を自分なりに懸命に紡いでいた2年余のつもりだった。子どものころのことを決して忘れたわけではない。父を許したわけでもない。全ての過去をそのままに心の引き出しにしまいこんで、再び同居することに応じたのだ。職を失い、体を患った父を受け入れるのはこの義務なのだと言い聞かせた結果だった。老いとはこういうものなのか? 心のキャパシティーは一杯一杯だった。早くチベットに行きたい。ビルの谷間の非常階段持設けられた喫煙所から見えるちっぽけな四角い空を見上げながら、また逃げることばかり考えていた。

◆8月。雲海の中にポツンポツンとヒマラヤの頂きが見えた。そして私はラサの飛行場から360度の空を見上げた。空はあまりに近く、薄い空気の中で、少しだけホッとしている自分がいた。ラサの街を歩きながら「チベットへの白き道」を読みかじってきたので、私も一番高い峠でタルチョをかけるぞと密かに思っていた(ミーハーなんです、結局)。帰り道、ポタラ宮の前の広場のあたりでいきなり強風が吹いた。砂埃を巻き上げて、目が開けられないほどだったかと思うと、見る見る雲が押し寄せてきて大粒の雨が降ってきた。さっきまで青空だったのに・・。気温が一気に下がった。その頃、ツアーメイトは一様に高山病になっていた。鉄人カソリ氏までもが・・。

◆「なんだか大変な旅になりそう・・」。予感は的中した。雨季だとは聞いていた。それにしてもひどかった。ずーっと雨にたたられた。道がぬかるんでいるのはいいほうで、至る所でなくなっていた。そして、そこには川が流れていた。一日に四季があった。ガレ場、砂、マディ、ありとあらゆる状況が高度4000mを越える場所で起こっていた。自然とはこんなに過酷なものかと改めて思い知らされた。オートバイごと濁流に流されそうになったりもしたが、みんなに助けられながら、私は闘っていた。走ることだけに集中していた。余計なことは考えなくて済むから、それはそれは大変な旅だったけれど、楽しくてしょうがなかった。

◆「高いお金払って、こんな苦労しにチベットくんだりまで来るんだから、私たちってマゾかも」と笑い合った。ツアコンのK氏が「もう二度とこの企画の主催旅行はしない。リスクが大きすぎるヨ」と言っていた。本当によく全員無事だったなと思う。あのカソリ氏に「もうダメだゾー!」と言わせたチベット。凄いところだった。自然の脅威とそこに生きる人々に触れて、私なんてやっぱり小せーなーと、そしてまた頑張るゾーという気になった。

◆旅の途中、カソリ氏がこんなことを言っていた。「僕は世界で一番親孝行です。親に産んでもらった僕が僕の人生を最大限謳歌している。これ以上の親孝行なことはありませんよ」と。私ってダサいなあと‥。私もこんな境地になれる日がくるのか。まだまだだなあ。

◆そんなチベットの興奮冷めやらぬ帰国後の8月末に事件は起きたのです。「お父さん、あなたって人は!」(以下次号!)[生田目明美]



今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信239裏表紙 10/29(金)
Friday
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500

山はカッコいい!!

 大久保由美子さんは、OLをしているとき、新田次郎氏の小説「銀嶺の人」で、初めて登山の世界に触れました。
 クラシックな登山家達にあこがれ、我流で山歩きを始めます。現実の山は、装備の呼称さえ昔と変って、まるで別世界でしたが、大久保さんの好奇心は止みません。96年、ひょんなことから小西正継さんのベースキャンプマネージャーを経験。
「自分の意志を越えた、流れのようなものに乗っちゃった」のをきっかけに、氷と岩の世界へ。バルチャモ、ガッシャブルムII、アマダブラム、デナリ、そして99年には、ムスターグアタ、チョーオユーに挑みました。
「山は、私の中の体育系と文科系を両方満たしてくれるから面白い」という大久保さん。
 地平線会議21年目最初の報告会は、大久保さんの経験してきた「流れ」に耳を傾けたいと思います。


通信費(2000円)払い込みは、郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議/料金70円



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