1999年11月の地平線通信



■11月の地平線通信・240号のフロント(1ページ目にある巻頭記事)

地平線通信239表紙●みなさ〜ン、お元気ですか。ぼくは至極、元気に10月20日午後3時、DJEBEL250GPSを走らせての「日本一周・東日本篇」を走り終え、東京・日本橋に戻ってきました。9月1日に出発した東日本篇ですが、50日間で1万6405キロを走ってきました。

●4月1日に出発した今回のカソリ50代篇の「日本一周」ですが、前半の西日本篇では5月31日に東京に戻るまでの61日間で1万9438キロを走り、その間では224峠を越え、45湯の温泉に入り、34岬に立ち、54本のダートを走り、19滝の名瀑を見、52カ国の一ノ宮を参拝しました。後半の東日本篇では122峠を越え、136湯の温泉に入り、41岬に立ち、60本のダートを走り、21滝の名瀑を見、3ヶ国の一ノ宮を参拝しました。で、合計すると3万5843キロ、346峠、181湯、75岬、114本のダート、40滝、55カ国の一ノ宮ということになります。

●じつは、これで「日本一周」の全行程が終了したわけではありません。明日、10月28日午前6時、3度目の東京・日本橋を出発し、10日かけて関東をまわり、11月6日午後3時に東京・日本橋に戻り、この関東篇をもって今回の「日本一周」を終えようと思っています。関東というのは、なかなかまわりにくいエリアで、それで東日本篇とは切り離して関東篇を別枠にしたのです。

●それともうひとつ、この旅の仕方とでもいうのでしょうか、ぼくのよく使う手なのですが、いったんゴールしたあとに再度、エクストラステージ的に出発するのは、“我が旅の師”というよりも我が偉大なる旅のライバイルの芭蕉さんのやり方を真似したものなのです。芭蕉の「おくのほそ道」で何がいいかって、旅の最後の地、大垣にゴールしたあと、さらに伊勢に向かっていくゾといって終わらせているところなのです。ぼくは前回の40代篇「日本一周」のときにも、同じやり方をさせてもらいました。ということで、芭蕉さん、ありがとう。

●今回の50代篇「日本一周」を走りながら夢は次ぎなる旅へと、どんどん飛んでいきました。60代篇「日本一周」、70代篇「日本一周」、80代篇「日本一周」だけではなく、島篇「日本一周」もぜひともやりたいな!という気になりました。河田真智子に挑戦!というのではないのですが、ぼくの今回の「日本一周」は日本列島の外周部をたどるコースをメインにし、そこから何本ものミニ一周ルートで内陸に入っていくというものでした。それを島篇では逆にし、日本列島の外周部をたどるメインコースから外へ、外へと出ていくミニ一周ルートをつなげていくのです。それともうひとつの理由。「日本にカソリの死角ナシ」といわれ?自分でもそう思っているのですが、じつは大きな死角があるのです。それが“島”。島といえば、“島国・日本”の象徴ではないですか。さー、60代篇「日本一周」の前に、必ずや、島篇「日本一周」をやるゾ!

●次なる旅へと夢が飛んでいくといえば、日本最北端の宗谷岬に立ったときは快晴で、宗谷海峡越しの、夜明けの水平線上にはサハリンの島影がはっきりと見えました。それを見たとたんにロシア横断(シベリア横断)をなんとしてもやらなくては‥‥と強く思いました。そこですぐさま「ロシア横断計画」を練りあげるのです。出発点はロシアからは、はるかに遠いアフリカ南端のケープタウン。そこから北上し、ナイロビ経由で最後はサハラ砂漠を縦断し、イギリスのロンドンへ。そしてロンドン→モスクワ→ウラジオストックと、「ロシア横断」をなしとげるというもの。「アフリカ縦断」とドッキングさせるもので、もちろんバイクを使っての話です。

●旅のよさは旅している間に次から次へと、頭の中で地図帳のページをめくり、それとともに自由自在に夢が世界を駆けめぐること。僕はそうやって、この30余年間、日本を世界を駆けめぐってきました。[賀曽利隆]



報告会レポート・240
山はカッコいい!!
大久保由美子
1999.10.29(金) アジア会館

◆ちょっとがんばれば8000メートルの世界を味わえるのではないか。大久保さんの高山旅行記とでもいうようなトークは、私をそんな気持ちにさせた。しかし、高山病や激しい気象の変化、数えたらきりの無いような難問の中、それを縫うかのようなピークアタックは、中途半端な思いで成し遂げられるものではないことは言うまでも無い。

◆大久保さんの“高山の世界”への玄関はヒマラヤだった。96年、小西浩文さんのエベレスト遠征隊にベースキャンプマネージャーとして参加した大久保さんは、6500メートル地点での3日間の“高所順応トレーニング”を通じて、高所に強い体質を認識する。遠征では身近な人間の死を経験し、高山の危険さを実感することとなったが、8000メートルの世界への遠征と、人への興味の強さは、大久保さんを次のステップへと導いていった。

◆97年のガッシャーブルム峰へは当時所属していた社会人山岳会「G登攀クラブ」の5人のメンバーと出かけ、第2次アタック隊での登頂となった。スライドからは、白一色、雪山の研ぎ澄まされた鋭さが伝わってくる。しかし、雪の状態が良かったとはいえ、あっという間に行って帰ってきてしまったかのような大久保さんの語りっぷりに、思わず江本さんの質問が飛んだ。「きついと感じたことはなかったのですか?」誰もが不思議に思っていたことだ。答えは、ちょっと考えた末「8000メートルの頂上についたらどんな気分だろう、という好奇心がモチベーションとなり、血気盛んな状態でキツイとは感じなかった。」とのこと。

◆続けて同年秋のアマダブラムは、人とのつながりにより実現した山行とでもいうべきか、外国の友人のコマーシャルエクスペディションに合流する形での山行となった。結果的に、日本人女性では初めて、という記録的登頂となったようだが、ちょうど他の隊にも日本人女性がいたことで、“先手必勝”と盛り上がるメンバー達とは対象的に、大久保さんいわく「記録好きの西欧人らにせかされ、私自身は不機嫌だった。」と、その時の不機嫌さを思い出したかのような口ぶりに、あくまでも自分のやり方で山を楽しみたい。という大久保さんのスタンスを感じた。

◆99年、それまで技術力の不足を痛感していたという大久保さんは、基本に立ち返るべくカナダの登山学校に入学する。これが新たなステップへの充電期間となったのか、学校の友人と二人でのマッキンリー、そして恩田真砂美さんとのムスターグアタ登頂など、“大所帯の組織ではなく少人数”という、大久保さんのスタイルでの山行を精力的にこなしている。

◆無酸素、そしてテクニカルなルートではなく、あくまでも自分に合ったルートを使い、山に挑戦していきたい。そう語る大久保さんは、“無理をしない”という山を楽しむ上で一番大切と思われることを信条としている様子が伺える。

◆「自分の意思を超えた流れのようなものの上に乗っちゃった」。通信の予告編にものっていた言葉だ。一見、流れに身をまかせているだけのようにもとれるが、私には、大久保さんの歩みは、自分の中での目標を定めることにより、各遠征をステップにし、あえて4年目にして、登山学校に入学するなど、確実に階段を上っているように見える。

◆それでは流れに乗るとは?私は流れという言葉よりも、次へ、次へと進み続ける大久保さんの強い探求心を感じずにはいられない。山の世界へ一人で飛び込み、自己流の山行を重ね、社会人山岳会では同期の死という悲しみを乗り越え、結果的にそれでも止むことの無い探求心が吸引力となってヒマラヤとの出会いへと繋がったのではないか。

◆その強力な探求心のパワーの源はなんなのか、育った環境や、好奇心の強い性格であるという事以外に、“のめり込むほど好きな、何か”を探しつづけ、バイク、スキューバなど、様々な分野にトライして来た大久保さんにとって、山がその答えであった、ということがひとつ。そして、5年間のOL生活が、大久保さんの好奇心を爆発寸前まで押さえ込み、着火剤となったことも一因といえるのではないか。安定したOL生活から第一歩を踏み出した事で得た出会いを、「自己完結したくない」という大久保さん。人前に出ることが苦手といいつつも、真剣に、山とそこから得た気持ちの変化を語ってくれた。

◆同じ女性として良きパートナーである恩田さんと共に、大久保さんの山へのパワーは、ますます強い流れとなって、留まる事がなさそうだ。[新村美穂]


完走
「奥多摩全山一周山岳耐久レース」 報告

◆地平線マラソンというのを、以前やっていた。皇居一週5キロを走るだけだが、気合をいれて走った者も、ほとんど歩きに徹した者もごちゃまぜでワイワイ楽しんだ(その全データは「地平線データブック・DAS」に記録されている)。最近は様子が変わって、一部の者がもっと過酷なことに首をつっこむようになった。

◆これまで何度か、持参する食い物を中心に取り上げた「奥多摩全山一周山岳耐久レース」も、そのひとつだ。今年は10月23,24日に実行された。

◆300名山をランニング登山した香川澄雄、9月の地平線報告者である「十倍トライアスロン」の中山嘉太郎、ご存知三輪主彦、その仲間の下島伸介、そしてミクロネシアで星座航海術を学ぶ風変わり大学生、石川直樹、それに不肖私と、いずれも地平線の常連たちが奥多摩の72キロ、制限時間24時間、に健脚を競ったのだ。

◆私自身については、食い物がやはり問題であった。今年こそは軽くしようと決意していたヌのに、アンパン、饅頭、栗ようかん、おにぎり、稲荷寿司、コロッケ、野菜サンドウィッチ、スモークチーズ、ミカン、バナナなどなど食い物でぎっしりのザックは、レースを終えてからですら、試しに持ったドクターが絶句したほどの重さであった。これはもう宿命というものであろう。

◆それでも、のろのろ行った割には去年より1時間早かったのは、ひっくりかえって眠りこけることをしなかったためだ。ともあれ、1100人あまりが出走して我が地平線がらみは全員、真ん中より上位であったのは、皇居マラソンの時代とは飛躍的に脚力が伸びている証拠であろうか。

◆で、結果は。

46位 中山嘉太郎 12時間31分
92位 下島 伸介 13時間56分
132位 三輪 主彦 14時間42分
166位 香川 澄雄 15時間35分(60歳台3位)
402位 石川 直樹 19時間19分
421位 江本 嘉伸 19時間32分

◆誰もホメないので言っておくと、若き石川君のために、少し譲った某ランナーは、さすがにさすがである。[江本嘉伸]



地平線ポストから
東京都新宿区荒木町
3-23-303
江本嘉伸方

E-mail :

地平線ポストではみなさんからのお便りをお待ちしています。旅先でみたこと聞いたこと、最近感じたこと…、何でも結構です。E-mailでも受け付けています。
地平線ポスト宛先:
〒173-0023 東京都板橋区大山町33-6 三輪主彦方
E-mail :
お便りお待ちしています
今月から地平線ポストの窓口がもうひとつ増えました。手紙、はがき、ファクス、電子メール何でもOK!!


●中島孝幸さんから…ケープタウン発(人力スケーターで世界旅行中)

◆人力スケーターの中島孝幸です。9月29日、ケープタウン到着。アフリカ大陸6カ国の旅を終え、10月10日の飛行機にて南米アルゼンチンに入ります。
(中島さんへの応援メールは、 まで)



●中山嘉太郎さんから…

【ベトナム走り旅 第1部 ファンシーパン】

◆ベトナム戦争・社会主義・発達した食文化の国ベトナム、東洋と西洋がミックスした国ベトナムを、“見たい聞きたい走りたい”と思い行動に移した。走るコースを「ハノイ→ホーチミン」と単純に考えたが2000kmと長く、サラリーマンにとっては長過ぎて休みが取れない。そこでスケールダウンは致し方ないが、ベトナムで一番高い山を含めて何か興味のそそられるような事を考える。3143mのファンシーパンは、高さはいまひとつだがあまり登られていそうにもない竹の山らしい。その山を源にした川の行く先は首都ハノイに行き着くのがわかった。こうなればファンシーパンを登ってハノイまで走ってやろうと考えた(モロッコでは走り登った)。

◆だが、ファンシーパンの情報は少ないので、10月は偵察の為にベトナムに行こうと決める。そして本番は正月に実施と考えた。ただ正月休も短い事を考慮して、手配がつけばファンシーパンには登ってやろう等と無謀とも思える欲張りな計画が頭をかすめる。調べると麓のサパは山岳少数民族の村らしく、モン族やザオ族などが暮らす、その事も非常に興味をそそられた。

◆さて、ハノイから夜行列車で中国国境のラオカイへ、更にミニバスで標高1500mのサパに行く。ここからファンシーパンを望む事はできず、ガスがかかる山の中腹しか見えない。ベトナムは旅行案内書によれば10、11月がいい気候と書いてあったが…。

◆サパですぐにガイドを捜し、「3日で降りて来られるか?」をきいた。Noの返事を予想していたが、答えは「YES」だった、すぐ準備にかかる。あの田部井さん等は94年に3日かけて頂上に立っている。当時と状況は違うかもしれないが、果たして3日で帰って来られるか心配だ、返事を信じるしかない。

◆バイクの後ろにまたがりサパから3kmのシンチャイ村近くまで行く。ここからガイドのドラゴン(23歳ガイドで12回登っている)と2人で、川沿いの村からすぐに急勾配を登る。現地の銃を持った猟師やフランス人やイギリス人のグループに途中会う。その後は1人も会わずに、見通しのきく尾根や薄暗いジャングルのような登山道を標高約2300mのキャンプサイトまで行く。翌日約2800mまで一気に登り、傾斜が緩やかな竹林(2cm位の太さ)をかき分けて進む。更に急峻な斜面を腕力で登り、最後は平泳ぎの要領で密集した竹をかき分けないと進まない。

◆3坪程度の3143mの頂きだけは真空地帯のようで、それまでの雨や竹はなく、冬の日だまりのような気分のいい(α波が一杯でてきそうな)頂上だった。北東面からガスが沸き遠くを臨むことは出来なかったが、ベトナム一の山頂は静かな面持ちだった。下りは休まずキャンプサイトまで戻って二晩連続で雨の夜を過ごす。翌日はサパまで、ドラゴン曰く「通常3日で17時間」のところを、今回3日で13時間の行動で帰ってきた。もし次ぎに登るチャンスがあるなら足効で1日で登れる事を示したい。

◆そんなに急ぐなとの意見もあろうが雨のテントで過すよりいい。さて、当初期待した”見て聞いて走って”は、山登りだけであまり実行できなかった。第2部は1999年から2000年にサパ−ハノイ間350kmランを予定している。



不定期破天荒連載「生田目が行く!」
番外編99年版その2

◆残暑の厳しいある夕方、駅で電車を待っている時、ふと携帯の着信履歴を見ると、自宅から物凄い数の電話が入っていた。液晶をスクロールする指が震えた。(また父が倒れたのかも)。何かただならぬ雰囲気が私の全身を駆け巡った。あせって連絡してみると父が受話器の向こうで怒鳴っていた。父は脳卒中の後遺症と総入歯ということもあって少し言葉が不明瞭で、その上、興奮していて口を受話器に押し付けて怒鳴るので、プラットホームの人ごみの中で父の話しは全く要領を得なかった。

◆とりあえず死んでなかったことに安心しつつ(笑)、帰宅してみると「ただ風呂釜が壊れただけだった」。やれやれ・・。私の家は古い借家で、ガスの点検が来るたびに換気注意のシールをいただくような古いバランス釜とかいうのが風呂場にあった。いつ壊れても「よくぞ今までご苦労でした」というような代物だったし、すぐ2、3軒先に大家さんが住んでいた。たとえ大家さんが交換費用を負担してくれなかったとしても、その代金を払うのは私で、父は工事の間の数日、風呂を我慢するか近所の銭湯にでも行けば済むのである。形あるものはいずれ壊れるのに、なぜ私がこんなことで怒鳴られるのか‥。

◆「電信柱が高いのも郵便ポストが赤いのも全て私が悪いのか!」的やるせなさがこみあげた。奥歯がこすれて嫌な音がした‥。私「今までお金が必要なときに出し渋ったり、払わなかったことなんて一度もないでしょ。いちいち些細なことで当たられてもこっちも仕事してるんだから少しは考えてよね」父「お前にあたらなくて誰にあたるんだ」私「じゃあ、あたられた私は誰にあたるんだ! 金の風呂でもなんでも買えばいい。気の済むようにしたらいい。私の仕事の邪魔しないでよ。誰のせいで昼夜働いてると思ってんのよ!」父「こんなボロ家だから風呂が壊れるんだ!長年ホステスやってて家の一軒や二軒買ってくれる男も引っかからないのか!」。売り言葉に買い言葉なのはわかる。でも大ショックだった。

◆父と同居を始めるにあたり、私はチンピラとホステスと怪しい外人しか住んでいないようなワンルームだったけど、生活至便な伊勢佐木町のマンションから引越しを余儀なくされた。その上、父は上下左右を気にするアパートは嫌だとか、庭いじりをしたいとか、足が悪いから駅から遠いとか、坂や階段はダメとか、お金もないくせに条件ばかり出してきた。当時たまたま不動産会社に勤めていた私が、やっと見つけたのが今の借家だった。たしかに贅沢はできないのだとは思う。なぜなら生活ギリギリのお金しか渡していなかったからだ(でも冠婚葬祭や旅行、飲み会の時には決して恥をかかないよう必ず多目にお金を渡した)。

◆断じてけちったり、不自由を強いたりしたことはない。それというのも、全て娘におんぶに抱っこじゃなく、公園の掃除でも自転車置き場のおじさんでもいい、週に一度でも二度でもいい、たとえ2,3時間でもいい、身体と相談しながら、たいしたお金にならなくたっていい、少しでも社会に接する機会をもって欲しかった。そうすることで、話し相手ができたり、自分も社会に参加しているという自信をもって欲しかった。ただ家で日がな一日テレビを見て、一坪足らずの庭に野菜作って、酒飲んでも、生きる希望にならないのは当たり前だ。オレの人生は終わったと言ってるくせに、どうして持ち家願望だけはあるのか? こんなちっぽけな日本の猫の額がそんなに重要な問題なのか? 今、借家なのは自分にも責任があるのではないのか? 別に面倒を見ているからといって、過去のことを謝ってくれとか、へりくだってくれとか、すまないねと遠慮しいしい暮らしてくれとは思わない。しかし、もう少し謙虚な気持ちでいてくれないのだろうか。

◆父親なら「早く水商売なんかやめて、自分の幸せを考えろ」くらいのこと言ってくれてもいいじゃないか (実際は無理でも)。脳裏にパラサイトという文字が浮かんできた。そんな感覚に陥った自分が恐ろしくてたまらなかった。自分のさもしさを認めたくなかった。でもここでまたぐっと耐えて何もなかったように、暮らしていくほど人間ができてもいなかった。だからといって、父を捨てるわけにもいかない。そうやって生きてきた父がこの期に及んで変わるわけもなかった。

◆これから、いくらでも必然的に面倒を見なければ行けない日が来るから(例えば寝たきりになった時とか)、今のうち少しだけでも離れてみたらと助言をもらった。願わくば、父の葬式の時にもう少し優しくしておけば良かったとか、もっとできることはなかったのかと後悔したくはないなあと思いつつも、なすすべもなく只今家出中。(次号より本シリーズに戻ります)[生田目明美]



短期集中連載!
 
野々山富雄の「明日できるコトは今日やらない」
――ノノの奇妙な冒険――

●どうも、屋久島の野々山です。このたび樫田編集長より“なんか書け”との大命を賜りました。そこで、好きなよーに生きてきたコトを好きなよーに書く、とゆーコトになりました。しばらくおつきあいのほど、よろしくお願いいたします。

第1回 怪獣探検隊、アフリカへ(その1)

◆小さいころから、人と違ったコトをするのが好きだった。大学には一応入ったけど、社会に出てからもまっとうな仕事に就く気はサラサラなかったのである。そこで探検部に入った訳だが、そこには私以上に変わった、パワーのある奴らがウジャウジャおった。

◆そんな仲間の一人、木村浩行がある時、途方もない話を持ち込んできた。アフリカのジャングルに潜む怪獣を探しに行くというのだ。怪獣!私は怪獣が大好きである。ワケのわからんでっかい奴が町を破壊しまくるカタルシス、分析すればそんな所なのだろうか。理屈はどうでもいいが、ガキの頃からこよなく怪獣を愛し続け、結局そこから卒業できずに大人になってしまったようだ。

◆木村の話によるとアフリカ、コンゴの奥地の湖に、ヘビのように首が長く太い4つの足とやはり長いシッポを持ったブロントサウルス(現在ではアパトサウルスと呼ばれている)タイプの恐竜が隠れ棲んでいると言うのだ。

◆そんなのいるわけねーだろ、と一笑にふされそうなものだが、怪獣マニアの私としては見逃す手はない。オレが行かなきゃ誰が行く。気分はもう“ロストワールド”のチャレンジャー教授である。しかもそいつ、コンゴドラゴンは現地ではモケーレ=ムベンべと呼ばれ、川の流れをせき止めるもの、という意味らしいが、実際にはゾウよりも小さく、カバよりちょっとでかい位の大きさであるという。それくらいのサイズなら現実にいたっておかしくはあるまい。

◆ところが、である。発案者である木村が1984年、利根川水上で激流下りの訓練中に遭難し、亡くなってしまった。同じゴムボートに乗り組みながら、私は彼を助けられず生き残った。もとより私はその業を一生背負っていかなければならないと思っている。でも怪獣、コンゴドラゴンの計画は彼のためというよりも、もはや自分自身の夢であった。アフリカへ行きたい、怪獣を捜したい。そんな思いの中、大学を出ると同時に後輩と2人でコンゴへと飛び出すことになったのだ。

◆コンゴという国、実は日本大使館もない。入国できるかどうかすらわからないのである。そこで最初はとにかく行ってみる現地調査というところであった。まあ、すったもんだはありながらも、様々な人の助けを得て入国することはできた。そして以前その湖に行って怪獣を見たというコンゴ人動物学者アニャーニャ博士に逢うこともかない、充分な成果をあげたと思う。

◆帰国後、本調査にむけてやる気はあるものの、いっこうに準備は進まない。意あまって力足らずというところだろうか。しかしよくしたもので素晴らしい協力者が現れてくれた。未知動物研究家の高林篤治氏である。

◆未知動物というのは未だに人間に発見、確認されていない、あるいはすでに絶滅したとされながら、実はまだ生き残っている生物達をさしている。つまりネッシーや雪男などのことで、またマンモスやタスマニアタイガーなどもこれに含まれる。よく日本ではUMA(Unidentified Mysterious Animal)と称されるが、これは和製造語で、欧米ではHidden Animal、隠れた動物と呼ばれ、国際未知動物学教会というものもある(現在活動停止中)。怪獣といえばなんとも眉つばくさいが、学問としてまじめに取り組んでいる学者も大勢いる。コンゴドラゴン=モケーレ・ムベンべはこの筋で最も可能性の高いものの一つとされているのだ。高林氏はこの分野で日本最古参の第一人者といってもいい方だった。と言うより他にそんなコト研究する人あんまりいないよなあ。

◆また早稲田大学探検部もコンゴドラゴン探査を計画しており、合同で遠征することになった。まあ実は綿密に計画を練り上げていた早大の高野秀行君達の隊に便乗させてもらったというのが本当のところだったが。

◆かくして1988年2月、高林氏、高野君はじめ総勢 11名にもなる、物好き怪獣探検隊はアフリカのジャングルにむけ出発したのであった。その珍道中については次回に。[野々山富雄]


「師走に向けてお知らせとお願い」

◆12月の報告会は、趣向を変えて、チベットの貴重な映像とともに久々「異文化大オークション」をやる予定です。国内外を問わずお手持ちの面白い、あるいは貴重な、または決して他では手にはいらない、もしくは貴重だが、そろそろどうでもよくなってきたもの、さらにはもらいものだがこの際、というものなどをヒソカニ準備しておいてください。来られない方は、事前に連絡の上、世話人の誰かにお渡しくだされば、助かります。

◆2000年の前夜祭の意味もありますが、だいぶ逼迫してきた地平線会議の財政を少々テコ入れしたいのです。

◆毎度面白い品物が集まります。無論安く、得する筈なので、品物を提供できない方も、ぜひ多少の予算をしのばせて参加ください。詳しくは次号の通信で。[世話人一同]



地平線新刊情報【拡大版】

●8月の報告者プロカメラマンの桃井和馬さん。『辺境からのEメール』(求龍堂; 1800円+税)。以下、本人からのPRです。

◆2000年まで残りわずかとなってきました。これまで混迷する世界を、フォト・ジャーナリストとして見据えてきた過程を、本にまとめました。

◆臓腑をえぐるような苦悩と、身体の芯から痺れるような喜び。魂を切り刻みながらの取材・撮影。猥雑で、いかがわしく、エロティックで、エゴイステックで、甘美で、耽美で、したたかで、時にやさしい。そんな辺境からの物語を、Eメールで一人の知人に伝える形式の本です。


西川栄明さん(地平線会議第11回報告者)。『やってみるか! 40からの田舎暮らし』(明日香出版社)。40歳から北海道に移住し、その体験をまとめたものです。田舎暮らしを目指す人必見の本。


●3度目のバイクでの日本一周を果たした賀曽利隆さん。『中年ライダーのすすめ』(平凡社;660円+税)と『世界を駆けるゾ!20代編』(フィールド出版;1400円+税)。なお、「世界を駆けるゾ!」は今年のJTB紀行文学大賞奨励賞を受賞。おめでとうございます! その裏話‥賀曽利さんが受賞を電話で奥さんの洋子さんに伝えると「やっと私に追いついたのね!」。もう20年以上も前、賀曽利家の長女、優子さんが赤ん坊の頃、親子3人でした1年弱の旅を洋子さんが著した「赤ちゃん、シベリア→サハラを行く」は、JAL海外紀行文学賞を受賞。審査員は今回と同じ阿川弘之氏。賀曽利さんは20年という時間と30冊という著作を重ねてようやく奥さんに追いついたのでした・・チャンチャン。


●「旅する父ちゃん」こと渡辺久樹さん。『地球とにらめっこ――アジア・アフリカ子連れ旅』(山と渓谷社;1300円+税)。以下本人からのメッセージ。

◆いい天気が続く秋なのに、主夫業と大工業に追われてどこへも行けず、通信が届き、旅先からの便りなど読むと、妬ましさでカッと身体がアツくなる今日この頃です。

◆この夏は、一家で東北を20日にわたってキャンプ旅行しました。子どもらは3人ともいたって元気で、末っ子の圭太も一応自分の足で八甲田山と姫神山に登りました。3歳にしてはエラい。海や湖で泳ぎまくり、温泉に入りまくり、ねぶた祭りを見、毎晩のように流れ星を眺めました。テントでぐっすり眠る子どもらを見て「こいつら、小さなうちからこんな旅ができてうらやましいなあ」と自分の子に嫉妬するほど楽しい旅でした。

◆「地球とにらめっこ」の表紙と扉絵はおなじみ長野亮之介画伯、本文のカットは予算節約のため、私が自分で描きました。11月15日前後の発売です。みなさん、是非自宅および職場近くの図書館に購入依頼をしてください。お願いします(買ってください、と言わないところが謙虚な人柄を表している)。



急報!! スルジェさん逝去!!

●ネパールを旅する多くの日本人がお世話になった、ポカラのスルジェハウスの女主人、スルジェさんが10月30日に急逝しました。以下、夫の平尾和雄さんと、友人の杉田晴美さんからのメッセージです。


◆妻、スルジェデヴィが脳内出血のため10月30日(土曜日)午後7時10分に急逝いたしました。三日前の28日の昼間、それまでいつも通りに過ごしていた彼女は、部屋の炬燵の中で眠るように意識を失い、再び目を開くことなく救急車で運ばれた病院の集中治療室で息をひきとりました。穏やかで見事な最期でした。個人の意思に従って葬儀・告別式は行わず、11月2日(火曜日)に荼毘にふされました。遺骨は後日、バラモン司祭にプジャ(儀式)をしてもらって、故郷の村のカリ・ガンダギ川に流してやるつもりでおります。[平成11年11月3日 平尾和雄]


◆スルジェさんが突然亡くなってしまいました。あまりに突然なのでいまだに信じられません。確かに病気を抱えていたことは確かでした。でも何度も危ないところを生還してきたから「不死身のスルジェ」なんて言われていたのに。なんで脳内出血でなんて。ついこの間まで元気だったのに。でも、苦しむことなく逝ったのですね、きっと。私は、残念ながら、ネパールのスルジェ館という民宿の女主人として切り盛りしていた頃のことは知らないのですが、練馬のアパートに遊びに行くといつもおいしいダルバートをご馳走してくれて、座が乗るとスルジェさん、踊りだして、ネパールの歌を教えてくれました。世話好きのスルジェさん。その昔、タトパニ、ポカラのスルジェ館で世話になった人はたくさんいることでしょう。「スルジェ」とは太陽という意味だそうです。その名の通り、これからも太陽となっていつも見守ってくれることを願っています。スルジェさん、いろいろありがとうございました。会えてよかったです。心からご冥福をお祈りします。[すぎたはるみ]


編集部より・・読者の中にもスルジェさんの世話になった方がいるかと思います。是非、一言メッセージをお寄せ下さい。次号、全文掲載したいと思います。



2000年1月は山形へ...
報告会 + 写真展「地平線発」

●突然ですが、2000年1月に山形で、写真展「地平線発」と地平線報告会を開催したいと考えています。東京を離れての報告会は、96年8月の神戸集会と今年7月に兵庫県日高町で開かれた20周年記念集会だけなので、なぜ山形で……と思われる方が多いかもしれません。じつは、東京を飛び出した最初の報告会となった神戸集会の、穏やかな空気のなかに心地よい熱気があふれていた雰囲気が忘れられず、いつか山形でもあんな報告会ができたらとずっと思っていました。

●私が地平線会議を知ったのは10年ほど前になります。ある雑誌に載っていた『地平線から6』の紹介記事がきっかけでした。「こんなすごい人たちが日本にいるのか」。それまで国内の短い旅の経験しかなかった私にとって、年報に出てくる行動者の冒険や旅は驚きと刺激に満ちていました。その後、地平線通信を毎月送ってもらってましたが、一方的に受け取るだけでなく何か自分ができることはないかと考えるようになりました。ちょうどその頃、『DAS』の制作を計画していることを知り、それに関わったことがきっかけで、200回記念大集会や神戸集会に参加するようになりました。

●そんなとき、写真展「地平線発」が開催され、地方での巡回展示も考えていることを知りました。もともと写真は好きで、一枚の写真がその場にいあわせない人に何を伝えることができるかということに関心を持っていました。写真展ならここでもできる、そう感じました。今年になってから写真展の準備を始めましたが、植村直己冒険館で開催した写真展と報告会のレポートを通信で読んだり、8月の報告会(「旅の写真術」)を聴きに行ってから、写真展と一緒に地平線報告会もやりたいと欲が出てきました。

●山形にもユニークな活動をしている人がいます。「アマゾン民族館」(山形県鶴岡市)の山口吉彦館長はその代表ともいえる人でしょう。若いときからアマゾンに惹かれ、何年も通い続けて膨大な数の民族資料を収集してきました。そのアマゾン民族館がある「出羽庄内国際村」のホールを写真展の会場に考えています。雰囲気や広さも写真展にふさわしいと思っています。しかも私の職場の目と鼻の先にあるですから。

●とりあえず、2000年1月23日(日)から30日(日)まで会場を押さえてあります。また、地平線報告会を1月29日(土)と考えて、同じ出羽庄内国際村のなかに会場を確保しました。しかし、写真展・報告会とも具体的な内容はこれから煮つめなければなりません。山形ならではの味つけにしたいと考えていますが、ぜひ皆さんのお知恵をお貸しください。1月下旬は一年で最も寒い時期ですが、2000年最初の報告会を真っ白な雪の世界で迎えるのはいかがでしょうか。運がよければ?この地方特有の地吹雪(ブリザード)を体験できるかもしれません。今から楽しみにしてくださいね。[山形県酒田市 飯野昭司]



新シリーズ 見えない地平線
のぐちやすおの刑務所レポート
その10 死刑台からの風景(2)

◆さあ、いよいよ執行所です。外部の光はもはや届きません。そのまま玄関を抜け短い廊下を数歩歩けば、はや執行の間、中央部が中心から割れる跳ね板仕掛けの20畳ほどの部屋です。梁からぶる下がるは末端にわっかを作る太い麻縄。これを目の当たりにするやどんなに覚悟を決めた死刑囚でも、ごくりと喉が鳴るそうです。

◆指揮官保安課長がこれより死刑を執行すると宣言、あなたはその跳ね板仕掛けの上に正座するよう指示されます。するとたちまち目隠しをされ、麻縄が首に巻きつきました。妙なしこりが右頸動脈付近に感じます。確実に脛骨を骨折させるため結び目が真横にきているためですが、その不快感を確認することはもうできません。

◆その正面、おっ、立ち会い人が数人、その様子を逐一見届けるために座っていました。長いことお世話になった拘置支所長、刑務所長、総務部長、分類室長といった面々と、外部から検察庁のヘッドが数人です。この矯正局東北管区の幹部たちが座るのは、落ちる先までもがしっかりと見届けられるように造られた、階段の踊り場みたいなテラスです。

◆これら観客を正面に4人の看守が顔を引きつらせながら、それぞれ手のひらを壁にあてて並びました。各々がどれかひとつが跳ね板を開かせるようにセットされたボタンを手にしているのです。いったいどのボタンが該当するのでしょうか、それを知るのは保安課長のみ、所長も知りません。ただ看守たちは、自分だけではないと後日もひたすらそれを信じる日々がつづくそうです。それともうひとり、万が一そのボタンが作動しないときのために、それだけでも着実に作動させるためのバースイッチが、5人目の看守によって握られました。準備完了、5人の看守は執行指揮官、保安課長のゴーサインを待つばかり。

◆さあ、あなたの残り時間、あと15分。



編集長の編集後悔記 ――Oさんのこと――

★10月10日。体育の日。この日になると、一人の女性、Oさんを思い出す。

★Oさんが地平線会議にやってきたのは90年。僕が80年にバイクで真夏のサハラを越えたのを知り、私も夏にやりたいとのことで話を聞きに来たのだ。Oさんは卒業旅行でアフリカ東部をバイクで走り、就職後も、サハラを目指し、毎週末茅ケ崎の砂浜を走っていた。

★91年秋。地平線の仲間が「変な投稿がある。通信に掲載すべきか」と、その投稿を見せてくれた。Oさんからのものだった。確かに変だった。19歳頃に自転車で冬の京都まで行った、22歳で東アフリカをバイクで走った。「○×歳で〜へ行った。〜をやった」の自慢のオンパレード。結局、これは、パソコンネットのHARAPPAで公開されたと記憶している。

★それから間もなくの10月10日、Oさんは自殺した。

★そのことを知った時、「しまった!」とかすかな後悔の念を覚えた。実は、彼女は僕に、過去に2度自殺未遂したことを話してくれている。あの元気と、生を絶ち切る衝動が同居しているのが不思議だった。でも、サハラを目指している今、もう大丈夫だろうと思っていた。だが・・。

★あれは、遺書だったのだ。自分がこの世でしてきたことをああいう形で残そうとしていたのだ。過去の自殺未遂を知っているオレがなぜ気づかなかったのか。止めれなかったとも思うが、少なくとも、声をかけてあげれなかった。今でも心残りだ。

★賀曽利隆さんが胸壁のガン摘出手術を受けた直後に電話をくれたことがある。「僕が体調を崩し始めたのは、カシダ君と同じ歳の頃。気をつけてください」。実はこの時、極めて良性ではあったが、首元に拳大の脂肪腫を抱えていた。この電話がきっかけで手術を受けた。医者は「良性であっても、周囲の筋肉や血管を圧迫している。癒着するところだった」と言った。

★また、昨年、友人の農業の植付けを朝から晩まで手伝った翌日、突然、左足首が動かなくなった。しゃがみっぱなしで、神経の一部が圧迫されたことが原因だ。1ヶ月くらいで元に戻ったが、これを知り、真っ先に電話してくれたのがやはり賀曽利さんだった。「ウチの父も同じようなことがあってから衰弱していったので・・」。

★杞憂に終わってもいい。ちょっとでも仲間の変化を感じ取ったら、「大丈夫か」「できることはないか」と声をかける。そのこと自体が大切だ。と言っている僕にとっても未だに課題であるのだが、10 月10日は、いつもそのことを思い知らされる。

★改めてOさんに合掌。安らかに眠ってください。[か]



今月の地平線報告会の案内(絵と文:長野亮之介)
地平線通信239裏表紙 11/26(金)
Friday
6:30〜9:00 P.M.
アジア会館(03-3402-6111)
\500

メコン瀑流航

 東京農業大学探検部OBを中心としたメコン川源流域航行踏査隊が、この夏、メコンに挑み、成功。世界初の快挙となりました。

 同隊は、94年春の源流域偵察隊、94年夏の源頭探検隊を経て、5年に渡る入念な準備に取り組んできました。ヤクのキャラバンでスタートし、4887m地点から航行開始。時に1日の寒暖差が30℃にもなる厳しい自然の中、高低差1500m、距離560km(ポーテージ7回)を下りました。

 日中合同メンバー9人に事故もなく、貴重な記録を携えて10月21日に帰国しています。今月は隊長の北村昌之さん他のメンバーを迎え、メコンの流れを語って頂きます。


通信費(2000円)払い込みは、郵便振替または報告会の受付でどうぞ
郵便振替 00100-5-115188/加入者名 地平線会議/料金70円

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